日本にワイン文化が根付いたのは昭和の東京オリンピックのころ。ですがその遙か前、明治時代にすでに本格的なぶどう栽培とワイン造りが行われていました。八幡製鉄所や富岡製糸場と並び、ワインを日本の産業基盤にしようとした一大国家プロジェクトがあったのです。
それが明治の刹那に存在した幻のワイナリー「播州葡萄園(ばんしゅうぶどうえん)」。長い間存在を忘れ去られていた日本最古の国営ワイナリーの発見から、現在に至るまでの物語です。
目次
播州葡萄園の発見
<岸本一幸「ワインに託した明治の夢」 出典:日経新聞1997年5月22日版>
「土の中からワインが入ったガラス瓶が出てきて。そしたらNHKの昼12時のニュースにばーっと出て。日経新聞の取材も来たんです。それで一気にモードが全国版に切り替わった。まあ言うたら僕も色気が出てきましてね。だってこれ裏面ですけど一面で、田辺聖子の横に僕が載ってるんですよ?これはえらいことやと。普通の公務員ではおれんなと」
稲美町役場の元職員(現在は定年退職)、岸本一幸さんは当時をこう振り返る。遺跡の発見者となり、自分の仕事が予想をこえて大きくなった20年以上前のことを、当時の新聞をみながら詳しく話してくれた。
稲美町の水田から最古級ワインが出土する
兵庫県神戸市の西隣にある、加古郡稲美町(いなみちょう)。ため池が多い町として知られ、南北をつらぬく県道沿いに、なだらかな田園風景が広がる町だ。
<兵庫県稲美町の航空写真 出典:播州葡萄園百二十年>
平成9(1997)年2月。稲美町の水田から、1880年代の国内最古級ワインがみつかった。
醸造したのは、明治時代の国営ワイナリー「播州葡萄園」。前年の圃場(ほじょう)整備中にみつかったレンガ遺構により、その存在は確認されていたが、ワインの入った瓶が出たことで一気に全国から注目された。
新聞各紙に「
「でも偶然の発見ではないんです。僕はこの場所に播州葡萄園があると知っていた。だからここを掘らせるように、話を進めていったんです」
文献の中だけに存在した幻のワイナリー
<明治政府の農業施策をまとめた「農務顛末」>
日本最古級のワイン発見の3年前、平成6(1994)年のこと。稲美町役場の職員だった岸本さんは、企画課で町の総合計画に関わっていた。特産品やアピールできるものについて話し合っていたとき、播州葡萄園のことを知る。
「会議にでていた一人が、昔このへんに播州葡萄園という国営ワイナリーがあったらしいと言ったんです。地元でもお年寄りに存在を知ってる人がなんぼかいる程度で、このときまで僕も知らなかった。でもなんか気になって。それでぼちぼち文献を調べだしたんです」
郷土資料を読み、地元のお年寄りに話を聞いてまわった。土地の登記簿謄本もさかのぼって調べ上げ、明治時代に播州葡萄園がこの地に存在していたこと、広大なぶどう畑と本格的な醸造設備を備えていたことを知る。建物の大まかな場所も突きとめた。
もうひとつ手に入れたかったのが、施設全体の図面。それは稲美町の資料にはなく、明治政府の農業行政をまとめた「農務顛末(のうむてんまつ)」に載っているとわかった。原本は東京大学農学部の図書館に、戦後に活字化された本は隣の市にあると聞き、どちらにも足を運んで確かめた。
<播州葡萄園の施設図 出典:農務顛末 筆者撮影>
そうやって播州葡萄園のことを調べていた岸本さんのもとに、目星をつけていた場所で圃場整備工事が行われるという話が舞い込む。
「田んぼをひっくり返して、あぜ道つくったり整備するんですけど、もし遺跡があったら壊されてしまう。これはまずいと思ってすぐ現場にいきました」
平成8年 播州葡萄園の発掘
<兵庫県稲美町の播州葡萄園跡地 2017.3筆者撮影>
遺跡の発掘は、土の色や層をみて場所を判断する。柱や壁をつくるために地面を掘り、土を埋め戻すと、その部分だけ土の質が異なるからだ。発掘のプロは、その痕跡を探す。しかし岸本さんは遺跡発掘の専門家ではなく、微細な土質の違いを見分けることはできない。
「しょうがないから工事中の田んぼをとにかく歩いたんです。何度も現場にはいって上に何か落ちてないか見て回った。そしたらどうもレンガがたくさん落ちている箇所がある。最初は誰かが風呂場の改修でもして、捨てたんかと思った。でも田んぼの真ん中ですよ?おかしい。ああ、これちゃうかと」
播州葡萄園の平面図を確認したところ、落ちていたレンガは建物の玄関、車寄せの一部ではないかと推測した。ならば図面の反対側にあたる位置を掘れば、同じものが出るはず。
「ユンボにちょっとここ掘ってえな。って頼んで土おこしてもらったら、アタリ!やっぱり出てきた。ずっと文献みて想像していた播州葡萄園は、確かにここにあったんやと」
「あなたどちらさん?」遺跡調査で思わぬ壁に
<播州葡萄園の地下ワインセラー 出典:播州葡萄園百二十年>
レンガ片の発見により、ここに播州葡萄園の園舎跡があることは間違いなかった。しかし、このままでは工事が進み、遺跡は破壊されてしまう。急いで遺跡調査の許可をとり、現場を保護しなければならない。
しかし稲美町役場には遺跡発掘の専門家はいない。困った岸本さんは、兵庫県へ相談にいった。
「第一声は、あなたどちらさん?でした。狭い世界なので、発掘やっている人たちは顔見知りなんですね。それにこういうのは埋蔵遺跡というんですが、ふつう縄文とか旧石器時代を想定している。播州葡萄園?え、明治ぃ?ついこないだやん!って言われましたね」
「近代のもんは、土に埋まってると思いませんよね。富岡製糸場とかは上に建ってますし。前例がない明治時代の埋蔵遺跡を、しかも素人がいきなり掘りたいと言ってきたら、そらこんな反応になりますわ」(※文化庁が、近現代の遺跡を埋蔵文化財の対象とする定義を通知したのは、この2年後のこと)
その場で文献や写真を見せながら説明し、稲美町の隣の加古川市にも専門家の派遣を要請。約2ヶ月後、正式に遺跡の確認調査として発掘が行われた。
数度にわたるこの調査で、醸造所や園舎の全体像があきらかになり、建物全体に広がる地下式のワインセラー(貯蔵庫)が見つかった。さらにワイン入りのガラス瓶も発見される。
<遺跡調査で発見されたワインボトル 出典:播州葡萄園百二十年>
岸本さんは当初、播州葡萄園を市町村か県指定の文化財にしたいと考えていた。しかし歴史的価値のある「ワイン入り瓶」が出たことで遺跡としての力強さを感じ、国の文化財指定を目指し整理にとりかかる。
残念ながらワインは飲めるものではなかったが、出土した遺物や文献から播州葡萄園の歴史をたどり、まとめていった。
明治期になぜ国家プロジェクトとしてワイナリーが作られたのか。どうして稲美町なのか。わずかな期間で役目を終えた理由。この地に何を残したのかも。
そこには、地元民にも忘れ去られていた、明治時代から続く幾層もの人の営みがあった。
明治十二年 加古郡印南新村にて
明治十二年。加古郡長の北条直正(ほうじょうなおまさ)は、目を背けたくなるほどの地元の窮乏に心を痛めていた。
もともと川のない土地ゆえ水利が悪い印南新村(いんなみしんむら)。稲作ができず、畑での綿花栽培に頼って細々と生活を保っていた村を、大干ばつが襲う。
稼ぎがなくなり、食うにも困っていた農民に、さらに人災までもがふりかかった。明治の地租改正によって苛烈な地税が課せられたのだ。
当時の実勢地価の十倍に及ぶ評価額が示され、ほとんどの民が税を支払えずにいた。土地を売ろうにも重税を嫌がられ買い手がつかない。八方ふさがりになり、ついには家と土地を捨て、行方知れずになる者もいた。
地域が崩壊する寸前の切迫した状況のなかで、直正がつかんだ打開の糸口。それが政府が国策として行う「葡萄園の候補地募集」の公告だった。
「この窮状を救うには、葡萄園を誘致し、国に土地を買い上げてもらう他ない」
直正は、すぐさま政府に陳情。国が決めた買い上げ価格で地主を説得することを条件に、葡萄園設置の意向を引き出す。
しかし、地主にしてみれば不当な地税をかけられ、その税金を支払うために言い値で土地を手放すことになる。これほど理不尽なことはない。
不満をぶつけ渋る地主たちに対し、直正は足りない金額を自分が支払うと申し出て、どうにか彼らを説得した。この機を逃すと村の復興はないとの切実な思いからだった。
明治十三年 播州葡萄園開園
播州葡萄園の開園にあたり、内務省から派遣された園長の福羽逸人(ふくばはやと)には、三つの使命があった。
政府の殖産興業政策の目的に沿う形で、まずは、欧州から取り寄せたぶどう品種の中から、日本の気候風土に適した品種を見つけ出すこと。次に、栽培したぶどうからワインを作り、国営ワイナリーの経営を安定させること。最後に、その成果を全国の農家に広め、国の産業基盤をつくることであった。
ぶどうは乾燥を好み、温暖な気候での栽培が向いている。東京の試験場では、寒冷な気候のためかうまく実をつけなかった。そのため、より温暖な西日本で、雨の少ない播州平野に適地をもとめ、申し出があった印南新村の畑約三十町歩を買い付けたのだ。
こうして播州葡萄園は開園した。
明治十七年 葡萄園でのぶどう栽培と成果
播州葡萄園は、順調な滑り出しをみせた。
フランスから輸入した苗木を使い、日本式の棚仕立て栽培ではなく、欧州式の垣根仕立てとするなど、栽培も本格的なものだった。
ぶどう品種は約六十種、株本数にして十二万本以上にもおよび、明治十七年には一千貫(約3750キログラム)のぶどうを収穫し、ワインを醸造した。
施設の見学会や講習会も開催し、成果の共有も行っている。
岡山県はこのとき持ち帰った生食用ぶどう苗とガラス温室栽培法を発展させ、マスカット栽培に成功し一大産地となった。
また、川上善兵衛が交配に成功し、現在日本固有の葡萄品種として確固たる地位を築いているマスカット・ベーリーAは、播州葡萄園から持ち帰ったマスカット・ハンブルクを母樹とした。
さらに、国家の重要施策であった葡萄園の視察には、大蔵卿の松方正義や、西郷商務卿といった政府の高官もやってきた。
葡萄園は、そうした要人たちに村の窮乏を知らしめる機会となり、土地評価額の見直しや、水利の悪い地域に水を引く事業のきっかけもつくった。
この疎水(そすい)工事の完成で稲作が可能となり、窮乏にあえいでいた村は生活を取り戻していく。
明治十八年 フィロキセラの悪夢
<フィロキセラとその被害樹 出典:葡萄栽培新書>
順風満帆にみえた葡萄園経営に暗雲が立ちこめたのは、開設から五年目のこと。温室区画のぶどう樹に数十匹のフィロキセラが見つかったのだ。
フィロキセラ(日本名:ブドウネアブラムシ)は体長一ミリほどの昆虫で、ぶどう樹の根や葉に寄生して養分を吸う害虫。寄生された樹は枯れてしまう。繁殖力が極めて強く、これ以前にフランスで猛威をふるった際には、欧州全土に波及し当時のぶどうの樹を壊滅状態に追い込んだ。
播州葡萄園でも、駆除のため五千本近くの樹を焼却処分せざるを得なかった。加えてこの年には、台風が葡萄園を襲う。暴風雨は一昼夜にわたって荒れ狂い、海風にあてられたぶどうは甚大な被害をうけた。この年のぶどう収穫量は前年の二割、二百貫(750キログラム)にとどまっている。
さらに不運は続く。この頃には、政府の殖産興業政策が転換され、官費削減のため様々な事業の民営化が進んでいたのだ。
播州葡萄園も槍玉にあげられ、官業払い下げ(民間への売却)が決まる。
このとき、誘致に尽力した北条直正は、租税問題で農民側に立ったことを理由にすでに郡長を解任されていた。また園長の福羽逸人はフランスに留学中であった。
こうして当事者不在のまま、播州葡萄園は明治二十一年に民間へ払い下げられてしまう。
その後しばらく経営は続けられていたが、ぶどう栽培やワイン醸造の詳細な記録は残っていない。国家的事業として期待され始まった国営ワイナリーは、こうして公的文書から姿を消した。
葡萄園の終焉
印南新村ではこの時期に疎水工事が完成し、稲作が可能になった。
播州葡萄園の経営を引き継いだ前田正名(まえだまさな)も、気候や虫害で安定しないぶどう栽培をあきらめ、稲作に切り替えていったと考えられる。
土地台帳の動きからも葡萄園の畑を切り売りしたことがわかり、明治三十年代にはほぼ姿を消している。
<前田正名の名前がある明治時代の土地台帳 出典:播州葡萄園百二十年>
不作の地に水がきたことで安定した稲作が可能になり、地域は潤った。しかし、皮肉なことに疎水事業のきっかけを作った葡萄園は、それ故に廃園に追い込まれることになった。
また、農業近代化を推し進めた大久保利通が暗殺され、続く松方正義の緊縮財政策、いわゆる松方デフレがこの時期に重なったのも、不運なことだった。
以後、日本に国営のワイナリーは造られていない。
播州葡萄園の功績
<播州葡萄園の登録商標 撮影:播州葡萄園歴史の館>
短命に終わった播州葡萄園だが、関わった人物は大きな功績をのこしている。
北条直正はこの後、加古郡母里村の村長となり、播州葡萄園や疎水事業など、地域の復興施策を「母里村難恢復史略(もりそんなんかいふくしりゃく)」に記した。
園長の福羽逸人は、西洋の園芸学を全国に広め、日本園芸の祖と呼ばれた。特に苺の温室栽培では、日本で初めて西洋に劣らない食味の「福羽いちご」を開発、今日の日本苺のルーツとなった。
葡萄園経営を引き継いだ前田正名は、のちに山梨県知事になり、現在の日本ワインを代表するぶどう品種「甲州」の普及につとめた。
時代に翻弄された播州葡萄園。もしフィロキセラ対策の「接ぎ木法」がもう少し早く日本に伝わっていたら。もし明治政府が国策としてのワイン研究を続けていたら。日本は今よりずっと早く、もっと広くワイン文化が定着していたのかもしれない。
播州葡萄園の今後
<国史跡播州葡萄園跡地の看板 2017.3筆者撮影>
現在の播州葡萄園跡は国の史跡として文化財指定され、許可なしに開発できないよう保護されている。
当時の資料や発掘品は、町役場近くに建設された資料館「播州葡萄園歴史の館」に展示保存された。現地の建物跡は、保存のためいったん埋め戻されたが、跡地を史跡観光公園として復活させる構想もあったそうだ。
「葡萄園全体は広すぎるので、建物とぶどう畑を中心にした一部を農業公園にしてね。地域おこしができないかなと。僕は定年が近かったので、保存管理計画をまとめたところで終わりました。あとのことは専門の学芸員の方が入ってくれて、郷土資料館で勤務しながら引き継いでいますよ」(岸本さん)
<稲美町郷土資料館に併設された播州葡萄園歴史の館>
現時点では、まだ施設開発のめどはたっていないが、他の動きもある。
葡萄園の畑の跡地で、民間の有志がワイン用ぶどうを栽培しているのだ。ぶどう品種はカベルネ・ソーヴィニヨン、メルロー、ジンファンデル、セミヨン、ソーヴィニヨン・ブランの5種。合わせて約1500本の樹が植えられている。(清酔酒造合資会社 醸造長:佐藤立夫さん)
<播州葡萄園跡地で栽培されている葡萄の樹 2017.3筆者撮影>
温暖化や病害により収穫量が安定しないため、数年前に400本のワインが生産されたのみだが、無理に生産量を増やそうとせず、安定した収穫を目指して栽培を続けている。
いつの日か、明治のレンガ造りを復元した史跡公園で、「播州葡萄園ワイン」を飲めるかもしれない。明治の日本が見た刹那の夢がつながっていくことを願う。
【参考文献】
・稲美町教育委員会
『播州葡萄園百二十年』(2000)
『国史跡 播州葡萄園跡』(2008)
・農商務省農務局編纂課 編
『農務顛末 第6巻』(1957)
・山陽新聞社
『岡山くだもの紀行』(2000)
・ワイン王国刊 山本博監修
『日本ワインを造る人々 西日本のワイン』(2011)
・日本経済新聞
『1997年5月22日朝刊』文化欄
・稲美町ホームページ・播州葡萄園
・稲美町郷土資料館
・播州葡萄園歴史の館